
GPDが生まれるまでのストーリー
―― 私の人生そのものが、GPDの原点だった
幼少期の問い
幼いころから、私はずっと「人の心」に疑問を持っていました。
なぜ父は怒りを抑えられないのか。
なぜ母は耐え続けるのか。
なぜ家族は、間違っていると分かっていながら、黙って従うのか。
その光景の中で生まれたのは、ひとつの問いでした。
――「なぜ人は、苦しみながらも同じ行動を繰り返すのだろう?」
きっかけ ―「心の病」と「興味」
20代のころ、私は結婚し、子どもも授かり、親との関係もようやく穏やかになっていました。
心から「幸せ」だと思い、「ストレスなんてない」と信じていたのです。
ところがある日、突然めまいや歩行障害、パニック発作、突発性難聴に襲われました。
病院ではこう告げられました。
――「これは、幼少期が原因の“心の病”です」
「なぜ、幸せなのに心が壊れるのだろう?」
この一言が、私の人生の転機となりました。
本屋に並ぶアダルトチルドレン、うつ、パーソナリティ障害などの本を片っ端から読み、
「心とは何か」への興味に火がついたのです。
自分自身と親の「心理構造」を解く
本を読み進めるうちに、私は自分の中にある“なぜ”を、ひとつずつ掘り起こしていきました。
なぜ、私は人の承諾なしでは決められないのか。
なぜ、過剰なまでに料理をふるまい、両親を家に招待したいのか。
なぜ、寝る前に家事のスケジュールを考えて眠れないのか。
なぜ、完璧に家事をしないと気がすまないのか。
なぜ、子どもを叱るときにイライラと戦うのか。
これらの謎を一つずつ解いていくうちに、
「今さらインナーチャイルドが泣き始めた理由」も見えてきました。
私の行動にも、すべて意味があったのです。
父と母を“理解する”という赦し
次に私は、父を知りたくなりました。
父の怒りの意味。
母の忍耐の理由。
そして、二人が抱えていた「潜在的な起爆スイッチ」の存在。
それを知るほどに、「理解」が“可哀そう”という情を生み、やがてその情が“愛”に変わっていきました。
気づけば私は、本当の意味での赦しを経験していたのです。
その経験は、子どもへの怒りを「愛ある言葉」に変える力になりました。
愛と依存の間で
やがて私は、がんを患った身体のまま離婚を決断しました。
理由は書けませんが、今振り返れば――
「親に喜ばれる結婚」「良き妻でいようとする努力」は、愛ではなく“居場所を失わないための行動”だったのかもしれません。
病気の身体で幼い子どもを抱え、生活費と家事の両立は不可能だと反対されました。
それでも私は、「病気だからといって、人生を諦めたくない」と思い、子どもを連れて家を出ました。
親とも距離を置き、孤独の中で始まった新しい生活。
そこで出会った一人の男性が、私に「真実の愛」と「依存」を教えることになります。
最初は距離を置いていた私に、彼は“行動”で愛を示してくれました。
やがて心を開き、彼を信じ、愛するようになりました。
けれど、5年後――彼が既婚者であることを知ります。
それでも、彼は妻の前で、私のことを「一番に愛している」と言いました。
本妻の前で、私に「子どものためにまだ決断ができない。待ってくれ」と話す彼を前にして、私は理性と感情の狭間で2年間も揺れ続けました。
そのとき初めて、自分の中で“愛”が“執着”へと変わっていく瞬間を体験したのです。
純粋に、幸せな気持ちで愛していた気持ちはいつしか、「そこまで言うのならば、早く嘘じゃないと証明してほしい」という”すがり”になっていました。
愛とは、相手を支配したい気持ちでも、証明してほしい気持ちでもない。
「この空の下のどこかで、元気でいてくれたらそれでいい」――
そう思えたとき、私は初めて愛と依存の境界線を越えました。
人が変わる瞬間を見た
35年の人生、そして9年間の独学を経て、私は自分の人生を自分で決断できるようになり、どんな状況でも前を向けるようになりました。
「もっと深く、心の構造を知りたい」
「自分が歩んだ変化のプロセスを、他の人にも体験してほしい」
その思いで、カウンセリングや講演会、モニターセッションを重ね、やがてGPD心理診断という形が生まれました。
“なぜできないのか”を責めるのではなく、“なぜそう思うのか”を知る――
その瞬間、人は初めて自分を動かす力を取り戻します。
そして今へ
起業から12年。
AIの進化とともに、私は「GPDの心理構造をデジタル化する」挑戦を始めました。
それは、誰もが自分を知り、他者を理解し、“支配ではなく、自立の上に成り立つ理解”を広げるための新しいステージ。
GPDは、私の人生そのものから生まれた“心の地図”です。
これからも、人が自分を理解し、赦し、そして歩き出せる世界を描いていきます。